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 自家用車や自転車・オートバイで自ら進むのではなく、公共交通機関を使って旅をしていると、移動の途中で少し気になるところがあっても、なかなか立ち寄ることは難しいものだ。

 鉄道を利用していて駅に入線した時に、なんとなく街の雰囲気を感じることがある。うまく表現はできないが、感覚的なものだ。その街の活き活きとした様子や和やかな風景に惹かれて、ちょっと降りてみたくなることも少なくない。

 だがその場で飛び降りるような経験は多くはない。予備情報が何もないというのも不安要素ではあるが、それは大抵なんとかなることは経験上知っている。しかし、いくら宛先のない放浪の旅をしているといっても、大まかな日程は考えて行動するし、切符は最初に決めた目的地まで買ってしまっている。

 記事上部の写真は1997年に通り過ぎたタイ国鉄ナコーンパトムの駅。世界最大の仏塔で有名な街だ。

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 すぐ上の写真は2005年のシーサケット駅。タイ東部のカンボジアとの国境を有するシーサケット県の玄関口である。

 双方の写真を撮った時には、鉄道で通り過ぎただけである。そして駅に停車したときに、なんとなく『いつかは降り立ってみたい』と思った場所である。ナコーンパトムはその仏塔を見に行ってみたかったし、シーサケットはカンボジア国境にあるクメール遺跡に行ってみたいと思っていた。ちなみにナコーンパトムはともかく、シーサケットのクメール遺跡は以前の記事でも少し触れたが、当時カンボジアとの国境紛争により一般人は立ち入れない状態が続いていた。

 そんな想いは、よくある旅の感傷にも似たもので、多くの場合は忘れてしまう。だが、淡い想いであっても、抱き続けていると、いつかはそんな機会が訪れるものなのかも知れない。

 2006年に訪泰したときに、ナコーンパトムにもシーサケットにも降り立つことができ、念願の仏塔やクメール遺跡を見ることができた。ナコーンパトムは写真を撮って9年後、シーサケットは写真を撮って1年程後のことである。

 思えば、旅の『何処々々に行ってみたい』という想いは、他に優先することや日々の生活でやらなければならないことに埋もれて後回しにするうちに、いつしか諦めたり忘れたりすることも多かった。もちろんそれはある程度仕方のないことだとは思っている。現実の日々の生活や仕事を犠牲あるいは疎かにして旅をすることもできなくはないが、失うものも多く、そう簡単ではないだろう。ただ、想いを持ち続けていると、チャンスの女神がやってきた時に、その前髪を掴むことができるような気がするのだ。

※『幸運の女神には前髪しかない』 レオナルド・ダ・ヴィンチの言葉で、チャンスは通り過ぎてから慌てて掴もうとしても掴めない、という意味。

【写真】上:1997年2月 下:2005年8月
【文章】2017年2月
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