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 鄭成功は中国の明の時代の人物である。満州の清国に攻められ、滅びゆく明国を擁護して最後まで抵抗を続けた。清国の攻勢に大陸を追われ、台湾に渡って政権を樹立するも、翌年には亡くなってしまう。その後、清の攻勢は台湾にも及び、台湾の政権も短命で終わって、過去記事でも少し触れたが清国に吸収される。

 鄭成功と台湾との関わりは短期間のものだったが、彼が打ち立てた政権は台湾で初めての漢民族による統治であった。また当時オランダが台湾を占領して牛耳っていたのだが、これを一掃している。中国や台湾の漢民族にとっては民族的英雄なのである。

 ちなみにこの像があるのは元はオランダ軍の城塞があった統治の中心地で、ゼーランディア城と呼ばれていた。攻め落とした後は台湾の鄭成功の政権の王城が建てられている。現在では安平古堡と呼ばれ、台湾に残る最も古い城堡とされている。

 以前『文天祥と正気の歌』の記事でも書いたが、中国では漢民族以外の国と戦った人物が政治的なプロパガンダとして英雄視され、半ば神格化されていることが多い。鄭成功もその一人ではあるが、中立的に見たとしても、その活躍は英雄視されるに相応しいものであろうと思う。

 鄭成功が意図した成果ではなかったかも知れないが、結果として漢民族による台湾の発展の礎を築いたのは明らかである。台湾では孫文、蒋介石と並ぶ偉人とされており、現代に於いても各地の街の通りの名前や学校の名前などにも多く『成功』の文字を見かける。

 ちなみに鄭成功と言えば、日本では人形浄瑠璃やそれを元にした歌舞伎『国姓爺合戦』が有名である。国姓爺とは、明の皇帝が彼の功績に対して、皇帝の姓(=国姓)『朱』を名乗ることを許したことからくる敬称である。ただし鄭成功はあまりにも畏れ多いということで、朱姓は使わなかったという。それでも国姓を賜るほどの人物だということで、国姓爺と呼ばれるようになった。爺というのはご老体のことではない。なにせ鄭成功は37歳で亡くなっているのだ。日本語でいう『御大』『親方』みたいなニュアンスである。

 他にも司馬遼太郎氏をはじめ、日本でも鄭成功を題材とした小説も多い。それは彼が日本とも繋がりがあることも一因かも知れない。鄭成功は、父の鄭芝龍が日本の平戸に遣わされているときに日本人の女性を娶って産まれた子で、半分日本人の血が流れている。そして鄭成功は日本で生まれてから7歳までを過ごしている。とはいえ、鄭成功が漢民族の民族的英雄であるという評価は変わらない。ただ現代日本に於ける知名度はいまいち低いような気もするので、もう少し知られても良いのではないかとは思う。

【写真】2012年1月
【文章】2018年6月
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