山東省曲阜は孔子の生地として知られており、孔子ゆかりの孔廟・孔林・孔府がユネスコの世界遺産に登録されている。街中も孔子一色で、孔子の像や論語の一節が書かれた碑やグッズなどを多く見かける。
写真は世界遺産の孔廟の入り口付近。大きく「金聲玉振」と書かれている。賢くて徳がある人を指しているが、これは孟子が孔子を評した一説からの言葉である。
孟子曰、「伯夷、聖之清者也。伊尹、聖之任者也。柳下惠、聖之和者也。孔子、聖之時者也。孔子之謂集大成。集大成也者、金聲而玉振之也。金聲也者、始條理也。玉振之也者、終條理也。始條理者、智之事也。終條理者、聖之事也。智、譬則巧也。聖、譬則力也。由射於百步之外也。其至、爾力也。其中、非爾力也」とっても簡単に要約すると…
『孟子』巻10・万章章句下
孔子は色々な聖人の集大成。集大成とは金聲して玉振るということ。玉振とは楽曲の始めに鉦を鳴らすことで、曲の条理を産み出す智の技。金聲とは楽曲の終わりに聲を打つことで、曲の条理を締めくくる聖の力。矢を的に射るにも、力がないと届かないし、技がないと当たらない。孔子は智と聖を兼ね備えた聖人である。
私は自分を知識人だとは思っていないし、世の中で知らないことは山のようにあって歯痒い思いばかりなのだが、この門を孟子に想いを馳せて通れるのは知識や教養のおかげかと思う。
確かに現在では知識のあり方も少し変わってきた。上述のことなど、ネットで調べればすぐに出てくるし、昨今では知識なんて不必要でネット検索で十分、検索力こそが大事、なんて意見も聞かれる。特にビジネスシーンにおいてはあながち間違いではないとも思う。しかし。それならば、なぜ大勢が通っていたこの門で言葉の意味をスマホで調べている人を一人も見かけなかったのだろうか。写真すら撮らずに素通りする人が大多数なのだろうか。皆が孟子の一節を諳んじていたとも思えない。
ビジネス上で出てきた未知の情報は必要だから調べる。でも旅先や日常生活で出会う未知の情報は膨大かつ多様で、しかも知らなくても困らない。この知ることが必須ではない情報の中からどれだけを刺激として受け取れるか、孟子の一節は知らなくても確認してみようと思えるのか、つまり情報への感度は、持っている知識や教養に依るところも大きいのではないかと思うのだ。だから私はもっともっとたくさんのことが知りたい。
【写真】2014年8月
【文章】2023年8月