最果志向 ~放浪家坂木さんの足跡~

この数十年の放浪履歴を元に思ったこと・感じたことなどを訪問者の目線で綴る『旅エッセイ』ブログ。たまに自作の音楽の紹介。

彰化

【坂木より】
2016年6月2日開設。現状一日1~2記事の更新です。皆様と『最果(さいはて)志向』と『漂泊の思い』を共有できれば幸いです。たまに昔作った音楽も公開しています。

彰化の肉圓

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 台湾には肉圓と呼ばれるローカルフードがある。台湾の食べ物は基本的に中国の福建省周辺にルーツのある食べ物が多いが、肉圓は大陸では見かけない台湾独自のものだと思われる。中国語ではロウュエン、台湾語ではバーゥワンという発音をする。

 この肉圓、台湾全土でよく見かけるし、台湾随一といっても良い観光名所・九份の名物にもなっているが、発祥の地でもある本場は台湾中部の街、彰化とされている。

 彰化の駅の少し南東に彰化肉圓と阿璋肉圓という二つの有名店が向かい合う交差点がある。

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 どちらが良いかなどはわからないので、先にオバちゃんが呼び込んでくれたほうの彰化肉圓に入ってみることにした。

 ただし周辺には他にもいくつか肉圓のお店がある。

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 肝心の肉圓。半透明な皮に包まれた何かがスープに浮かんでいる。皮は見た目の通りで、ぶよっとしているというか、もちっとしているというべきか、といった食感である。おそらく片栗粉だと思う。

 中には豚肉を主としてタケノコや野菜を混ぜた餡が入っている。日本の豚まんの具にも似ているかも知れない。

 圓という字は円という字の繁体字である。日本で言うところのいわゆる旧字体で、日本でも戦後まもない頃までは、お札にも円ではなく圓という字が書かれていたはずだ。つまり肉圓は肉円なわけだが、なぜこういう名前なのかはよくわからない。出してくれる際に食べやすいように少し切ってくれていたが、元々は丸い形をしていたのだろうと思われるので、そこから付いているのかも知れない。

 私的には皮のボヨボヨ感があまり好きにはなれなかったが、味は悪くなかった。好きになる人も多いかも知れない。台湾を訪れられるなら、一度は試してみても良いのではないかと思う一品である。

【写真】2011年12月
【文章】2019年2月


ここで馬を降りてください 台湾の鹿港天后宮にて

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 『ここで履き物をお脱ぎください』ならぬ『ここで馬を降りてください』

 台湾彰化県の鹿港天后宮の入口の碑文。中華圏の寺院などでは、しばしばこういった碑石が残されていることがある。例え偉い役人であっても、ここで下馬し、すなわち頭が高いままでなく低頭して、敬意を払いなさい、ということだろう。

 この鹿港の天后宮は清代に新しく建てられたもので、新祖宮とも言われている。実は台湾で唯一、大陸の皇帝の命で建てられた廟である。名残はこの碑石にも見られる。碑文の左端に台湾では見慣れない文字が並んでいるのがおわかり頂けると思う。

 清は漢民族の国ではなく満州族が建てた国であり、その支配下では五体と呼ばれる五種類の言語や文字が主に使われていた。多民族国家ならではの事情とも言えよう。五体とはすなわち、モンゴル文字、漢字、チベット文字、満州文字、アラビア文字表記のウイグル語である。

 左側の文字は満州文字だと思うのだが、満州文字は確かモンゴル文字を基として作られたはずなので良く似ており、専門でない私にはわからない。少なくともアラビア文字やチベット文字とは形が全く違う。

 いずれにしても、台湾でこのように清代の名残が残っているのを見ると、『一个中国(一つの中国)』を標榜する中国の言い分も全くわからないわけではない。もちろん政治は簡単ではないし、現在では文化や言葉でさえかなり乖離してきているのを目の当たりにしているので、一概に言えることではない。

【写真】2011年12月
【文章】2018年5月

糖業鉄道の廃線跡を鹿港駅から辿ってみた

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写真は過去記事より

 以前に彰化県の鹿港で運行されていた糖業用の軽便鉄道を紹介したことがある。今回は少しばかりその続きの話だ。

 1970年代に鉄道は廃止されたとのことなので、もう廃線となって久しい。鹿港の駅舎は保存してあるが、当然ながら線路が残っているわけではなかった。だが、昔線路が通っていたところというのは、面影が残っている場所も多いような気がする。専門家ではないので、明確な特徴が言えるわけではない。なんとなく雰囲気でわかる、といったところだ。

 この鹿港駅跡からも、なんとなく線路がこちらに伸びていたのだろうな、という場所があったので、少し辿ってみた。

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 旧駅舎の前は広い駐車場になっていた。恐らくこの辺りには駅の施設、例えば貨物駅のような荷物の積み下ろしができるスペースやちょっとした車庫もあったのかも知れない。

 その奥に遊歩道のある細長い公園が見えた。恐らくここから線路が伸びていたのだろうと思われた。

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 細長い公園と遊歩道にはレールこそ残っていなかったが、おそらくここに敷かれていたのだろうと思えた。公園の幅がちょうど鉄道が敷設されていたと思える程度で、ずっと奥まで続いているのだ。
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 この公園を突っ切ると、道路に出た。どうやらここからはずっと、この真っ直ぐ続く道沿いに鉄路があったらしい。レールは残っていないが、写真でも確認できる通り、道路右端の再舗装されたような跡が真っ直ぐ続いていたので、そう推測した。

 地図で見てみると、この道は彰鹿路というらしい。まさに彰化と鹿港を結ぶ道ということで、鉄路もこのまま彰化まで結ばれていたのだろうと思う。この道沿いに敷かれていたのだとすると、このまま彰化付近まで辿ることができるようだったが、残念ながら自転車やバイクでの旅ではなかったので、バスで彰化まで戻った。彰鹿路はそんなに太い道ではなくて、バスは若干南寄りを通る主要幹線道路を走る。

 廃線跡と思わしき部分はGoogleストリートビューでもはっきり確認できる。



 この道をGoogleでずっと辿ってみた。彰化に近くなってくると、彰鹿路は馬鳴路と名前を変えている。随所に残る駅や廃線跡と思われるような修復の痕跡を辿っていると、いつしか昔を想像して夢中になってしまう私は、ちょっと頭がおかしいのかも知れないと我ながら思う。

 ただし上記は、現代の風景や地図から感じたり推測しただけのことで、実際の資料に基づいてはいない。間違っているかも知れないことはご了承頂きたい。学問であればきちんと資料を調べて、仮説を証明しなければならないのだけれど、これは推理ゲームのような遊びだと受け取って頂ければ幸いである。

【写真】2011年12月
【文章】2018年2月

旧鹿港駅跡と製糖会社と歴史の善悪

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 台湾西岸の中部、彰化県に鹿港という鎮がある。以前の記事でも紹介したが、中国や台湾で鎮と言うのは、市よりも小さな、日本で言うところの町や村を指す。行政区分の一つでもある。

 鹿港は古くは天然の良港を持つ街として栄えた。しかし港湾に河川から流された土砂などが堆積して港の機能性が落ちたことに加え、彰化平原の輸送がより重視されて彰化や員林に南北の縦貫線が通されたため、海岸沿いの鹿港は主要鉄道路線網から外れた。これにより鹿港は経済的な発展からは置いて行かれ、現在では古い町並みを残す小さな海岸の町である。

 とはいえ、鹿港から彰化や員林まで、かつては鉄道が敷かれていたこともあった。日本統治時代には台湾での製糖業が盛んになり、台湾各地に専用の軽便鉄道が敷かれた。鹿港にも製糖会社が敷設した糖業鉄道があり、一般旅客の輸送も行っていたとのことである。

 現在では当時の明治製糖が作った鹿港駅が残されており、どうやら観光案内所や食堂等として利用されているようだった。なぜドラえもんが置かれていたのかはわからない。

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 ついでなので、鹿港に鉄道を敷いていた製糖会社のことを調べてみた。新高製糖が彰化まで、明治製糖が員林や渓湖まで敷設し、戦後には統合されたとのこと。新高製糖という会社は聞いたことがなかったが、どうやら昭和の初めごろに大日本製糖に合併されたようだ。

 2017年現在、三菱商事の100%子会社となっている大日本明治製糖という会社がある。ばら印で有名な日本の大手製糖会社の一つであり、大日本製糖と明治製糖が合併してできた会社である。両社とも設立には渋沢栄一が関係しており、20世紀初めごろから台湾での製糖業を始めている。

 つまり鹿港から彰化や員林まで鉄道を敷設していたのは、今の大日本明治製糖ということになる。

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 太平洋戦争後、つまり日本統治が終わった後は、確か国民党政府が製糖工場や鉄道などの資産を接収したはずだが、少なくとも1970年代頃までこの鉄道は走っていたとのことである。

 恐らく当時走っていたものであろうディーゼル機関車が展示されていた。

 これらを見て、いろいろと考えることもある。日本が台湾に行っていたのはいわゆる植民地支配である。言葉の定義や西洋との手法の違いなどが取りざたされることもあるが、私的にはそんな細かい定義の話はどうでもよい。

 日本が台湾を植民地として統治し、結果的に台湾に経済や産業の発展をもたらしたのも、それらの成果を搾取したのも事実である。法治を持ち込んで治安を良くしたのも、抵抗する人を弾圧したのも、やっぱり事実だ。それらは台湾の民のためを思ったなら善で、自分たちの利益のためなら悪、なのだろうか。結果として経済的に豊かになったら善で、貧しくなったら悪、なのだろうか。そもそも当時生きていた人たちは、悪行と思って歴史を動した人なんておらず、みんな善かれと思って精一杯やっただけではなかろうか。

 結局善悪なんて、一つの事実に対して、勝手な歴史観や判断基準、あるいは倫理観やパワーバランスなどによって都合のいいように解釈されるだけなのだろうと思う。我々の時代、私たちの国、人類、地球、その他諸々が、後世の歴史家にどのように評価されるのか見てみたい気もする。

【写真】2011年12月
【文章】2017年12月

今はない員林駅の旧駅のプラットホーム

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 台湾の中部、彰化県の員林の駅の写真が残っていた。

 2012年の大晦日の写真なのだが、横では大きな工事が行われていた。近い将来、員林駅は高架の新駅舎になるとのことだった。確かに街をブラリ歩きしていると、この駅が街を東西に断ち切っていると感じた。特に駅の西側のエリアから駅に入るにはグルリと迂回しなければならず、若干寂びれた下町の雰囲気だった。駅の出入り口がある東側の賑わいとは程遠く、同じ駅の傍とは思えなかった。

 今では立派な高架の駅になっているはずだ。ただ、私としては高架駅はどこにでもある感じでなんとも味気なく感じる。街の雑踏の中で、鉄道のガタンゴトンやブレーキ音、扉の閉まる音、駅のアナウンス、踏切の音なんかが聞こえる地上駅のほうが、なんとなく風情があって好きだ。

 私が現在住んでいる長岡京市には、鉄道の駅が3つある。比較的新しい阪急の西山天王山駅は高架駅だが、市の玄関口となる昔からのJRと阪急の駅は地上駅のままである。渋滞や往来の不便さの解消のため、高架化を望む声もあるようだ。確かに高架駅のほうが効率的なのは間違いないし、踏切の渋滞にウンザリすることも多々ある。しかし街の風情が味気なくなってしまった例を多数見る機会があった私としては、わざわざ大金をかけて高架化することには、大手を振って賛成もできない。まぁ考え方はそれぞれだろう。

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 話を元に戻して。

 員林の駅も、もう二度とこの風景を見ることはない、と意識していれば、もっとたくさん写真を撮っていたのかも知れない。ただ新駅を横で工事していて、それを見ているにも関わらず、案外そういった考えに至らなかったりもするものだ。アンテナが働いていないというか、センサーの感度が悪い、というか。

 言い訳に過ぎないが、当時は激務の中でなんとか年末に休暇がとり、日本からやってきて一泊したところで、まだ日常の忙しない精神状態が抜けやらず、心のセンサーやアンテナが旅モードに切り替わっていなかったようにも思う。

 というわけで、残念ながら、今はもうない地上駅だったころの員林駅の写真は、この2枚しか残っていない。

【写真】2012年12月
【文章】2017年10月
  
プロフィール
管理人:坂木
ただ行けるところまで行ってみたい。何もなくても構わない。何もないことを見に行く。そんな性癖を勝手に最果(さいはて)志向と名付けた。
職業は会社員。休みのたびにあてもなくフラリ旅に出てしまう。



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