最果志向 ~放浪家坂木さんの足跡~

この数十年の放浪履歴を元に思ったこと・感じたことなどを訪問者の目線で綴る『旅エッセイ』ブログ。たまに自作の音楽の紹介。

台南

【坂木より】
2016年6月2日開設。現状一日1~2記事の更新です。皆様と『最果(さいはて)志向』と『漂泊の思い』を共有できれば幸いです。たまに昔作った音楽も公開しています。

台湾の牡蠣の産地で殻を剥く人々

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 台湾は、本島でも日本の九州と同じくらいの広さの島国である。海に囲まれているだけあって、海産物も豊富である。

 中でも、牡蠣は日本と比較しても非常にポピュラーな食材であると言える。台湾名物の牡蠣入りオムレツ蚵仔煎は台湾各地の夜市の屋台や食堂で食べることができるし、他にもスープの具など多彩な料理に登場する。

 大量消費をするということは、当然ながら大量生産をしている。台湾では中南部の西海岸、嘉義や台南あたりの海岸沿いで養殖が盛んだとのことだ。ちなみに写真は台南の街角。写真を撮っても良いかとお願いしたら、快く承諾頂いた。

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 大量の牡蠣がものすごい速さで剥かれ、籠に放り込まれた殻が山積みになっていく。形状の異なる牡蠣を一つ一つ剥くのは、恐らく機械よりも手のほうが早いような気もする。いや、現代の技術で機械を開発すれば高速で処理することは可能だとは思うが、結構な開発費用と制作費用がかかると思われ、ペイできるのかは疑問だ。

 それはともかく、ものすごいスピードの作業の所作は流れるようで、見ていて心地よい。速く作業をするためには無駄を削ぎ落とさなければならない。いわゆる機能美みたいなものだと思う。

【写真】2012年1月
【文章】2018年11月

古堡にて

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 たまにはこういうタッチの写真も…
 と思ってみても、自分のセンスと技術の無さが目立つだけでした…。

 台湾の古堡にて。

【写真】2012年1月
【文章】2018年9月

台湾の小さな老街を歩く

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 中国や台湾の旅行ガイドなどを見ていると、街の地図に『老街(ラオジェ)』と書かれているところが多くある。見どころとして挙がっているところも多い。

 老街は古い町並みが残っている地区・通りである。特に観光産業に力を入れている中国では、完全に観光地化されているところも多く、土産物屋が並び、観光客が押し寄せてきて、休日ともなれば繁華街のような賑わいがある老街も少なくない。

 台湾にもそういった大規模に賑わう老街もあるが、中国に比べると小さく静かな老街も多いように思う。それらは手つかずというわけではないのだが、繁華街ほどの賑わいではなく、小規模だが静かで、ノスタルジィに浸れる老街も多い。

 ただしそういった小規模な老街は、お店なども少なく、街並み保存の規格制限も比較的緩いようだ。少しノスタルジックな町並みという以上の観光的な見ごたえはない場合も多い。ゆっくり散歩する以外のことはできないので、小さく無名な老街を目的地にして巡るほどではないかも知れない。しかし行きたい場所の途中やついでに行ける場所にあれば、立ち寄ってみるのも悪くないと思う。

 考えてみれば、中国の都市でも、こういったノスタルジックな雰囲気の残る街並みは多いのだが、いちいち老街とは言ってないような気がする。これは想像だが、もしかしたら今後中国で近代化が隅々まで及んできた際には、各地の古い町並みなどで保存運動が起きて整備され、新しく老街と呼ばれるところが増えてくるのかも知れない。

【写真】2011年12月
【文章】2018年7月

台南の城塞跡に立つ民族的英雄、鄭成功の像

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 鄭成功は中国の明の時代の人物である。満州の清国に攻められ、滅びゆく明国を擁護して最後まで抵抗を続けた。清国の攻勢に大陸を追われ、台湾に渡って政権を樹立するも、翌年には亡くなってしまう。その後、清の攻勢は台湾にも及び、台湾の政権も短命で終わって、過去記事でも少し触れたが清国に吸収される。

 鄭成功と台湾との関わりは短期間のものだったが、彼が打ち立てた政権は台湾で初めての漢民族による統治であった。また当時オランダが台湾を占領して牛耳っていたのだが、これを一掃している。中国や台湾の漢民族にとっては民族的英雄なのである。

 ちなみにこの像があるのは元はオランダ軍の城塞があった統治の中心地で、ゼーランディア城と呼ばれていた。攻め落とした後は台湾の鄭成功の政権の王城が建てられている。現在では安平古堡と呼ばれ、台湾に残る最も古い城堡とされている。

 以前『文天祥と正気の歌』の記事でも書いたが、中国では漢民族以外の国と戦った人物が政治的なプロパガンダとして英雄視され、半ば神格化されていることが多い。鄭成功もその一人ではあるが、中立的に見たとしても、その活躍は英雄視されるに相応しいものであろうと思う。

 鄭成功が意図した成果ではなかったかも知れないが、結果として漢民族による台湾の発展の礎を築いたのは明らかである。台湾では孫文、蒋介石と並ぶ偉人とされており、現代に於いても各地の街の通りの名前や学校の名前などにも多く『成功』の文字を見かける。

 ちなみに鄭成功と言えば、日本では人形浄瑠璃やそれを元にした歌舞伎『国姓爺合戦』が有名である。国姓爺とは、明の皇帝が彼の功績に対して、皇帝の姓(=国姓)『朱』を名乗ることを許したことからくる敬称である。ただし鄭成功はあまりにも畏れ多いということで、朱姓は使わなかったという。それでも国姓を賜るほどの人物だということで、国姓爺と呼ばれるようになった。爺というのはご老体のことではない。なにせ鄭成功は37歳で亡くなっているのだ。日本語でいう『御大』『親方』みたいなニュアンスである。

 他にも司馬遼太郎氏をはじめ、日本でも鄭成功を題材とした小説も多い。それは彼が日本とも繋がりがあることも一因かも知れない。鄭成功は、父の鄭芝龍が日本の平戸に遣わされているときに日本人の女性を娶って産まれた子で、半分日本人の血が流れている。そして鄭成功は日本で生まれてから7歳までを過ごしている。とはいえ、鄭成功が漢民族の民族的英雄であるという評価は変わらない。ただ現代日本に於ける知名度はいまいち低いような気もするので、もう少し知られても良いのではないかとは思う。

【写真】2012年1月
【文章】2018年6月

太い竹をそのまま桟に使った曲線的な窓 台南赤崁樓にて

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 加工しやすく、柔軟で丈夫な竹は、古来より様々な用途で使用されてきた。現代ではさらに扱いやすい合金や合成素材にその役割を譲っていることも多いが、それでも比較的よく見かける自然素材の一つであることは間違いない。

 建築現場の足場に使われたり、垣根や桟に使われているのも、よく見かけたものである。ただし、そうやって竹を使う場合の多くは、竹を縦に割って、細く平たくして使うことが多いと思う。太い竹を割らずにそのまま窓の桟に使っているのは、中華圏では散見されるが、一般的と言えるほどではない。

 だが、これはこれで、良い雰囲気を醸し出しているのではないかと思う。それに加えて、この曲線を描いた窓の形に、こだわりと風流を感じる。

 ちなみに写真は台南の名所、赤崁樓やその周辺の建物を訪問した時のものだ。

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 中華圏だけでなく日本でも、そして世界でも同じなのだが、昔の建築では、窓の装飾や形あるいはその光の取り入れ方に注力されたことが覗えるものが多いと感じる。考えてみれば、産業革命以前すなわち電灯がなかった時代に於いて、建物に光を取り入れる窓の役目は、今とは比べ物にならないくらい大きかったはずであるから、それも当然なのかも知れない。

 昔の街並みや建物では、窓に注目してみるのも面白い。窓には建てられた時代や文化のモダンな『粋』が凝縮されているような気もしている。

【参考】インスピレーションを頂いた記事
 [ 窓 ] in バルセロナ by MERUMO様

【写真】2011年12月
【文章】2018年5月


  
プロフィール
管理人:坂木
ただ行けるところまで行ってみたい。何もなくても構わない。何もないことを見に行く。そんな性癖を勝手に最果(さいはて)志向と名付けた。
職業は会社員。休みのたびにあてもなくフラリ旅に出てしまう。



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